昭和四十七年八月二十三日 朝の御理解
御理解 第六十九節 「信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしゅうする 三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いた ら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめ じゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行 こうが。みやすう信心をするがよいぞ。」
日は年月のはじめじゃによって、その日々のおかげを受けていけばとまずその、その日々のおかげを受けていくという信心。
十年と信心が続いたら我ながら喜んでわが心が祭れるというような信心は、信心をはじめた頃から、十年といったようなもんじゃない思うです。
その日々のおかげを受けてゆけれるという事が有難い。いよいよ信心を有難いと、本気で信心の稽古をさせて頂く、いうなら、本気で自分の本心の玉を中心として、例えば最近ここで言われる和賀心という事を目指して、ここを焦点にして、信心の稽古が出来るようになってからのいうならば、十年という事は必ずしも数字にかかわる事はいらんと思う。
それは五年ででも、六年ででも、いや三年ででも、本気になれば和賀心が拝めれるようになる思うのですよ。
ですから、例えばその日その日のおかげが受けられるという事が、まずそのひとつの信心の基礎と言うからね、神様を拝ませてもらうという、そこからね、そういう信心から、神様は有難い、ここには信心の稽古に通うて来るところとおっしゃるから、稽古に通わせて頂くうちにです、段々信心の何たるかという事もわからせてもらい、いよいよ自分の心を中心に、しかも神様の願いを我が願いとさせて頂ける程しの、そういう願いに焦点が置かれて、信心の稽古を十年も続けたら、これはもう、本当に、吾ながらわが心が祭れるようになると思う。
わが心が自分で拝みたいような状態も開かれてくると思う。だからこれは、それまでの人が沢山あるわけです。もう何十年間、いや一生それで終わるという人もあるのです。その日その日のおかげを受けていくという事だけは。
ですから、このへんのところを、ちょっと反対ですよねぇ。十年の信心が続いたら我ながら喜んでと。十年信心が続いたという信心は、只今申しますように、もう焦点をはっきりおかげが目当てというのではなくて、信心が焦点という事になってからの十年。その為にはまず、その日その日のおかげを受けていくという事が大事。
受けていくということの上にも、いろいろなやはり工夫というかね、お話を頂いてヒントを頂くというか、が要ると思う。
昨日は午後から、福岡の安東さんのところの霊様の式年祭でございました。【】さんの弟に当たる。それがまだ満州におられる時分、出来られてすぐ亡くなられた 私は二十五年の式年祭の時も御用さしてもらったんですけれども、それからまあ五年過ぎて、三十年の式年祭、もう本当に親でなからにゃ出来るこつじゃないと思いましたですねぇ。
もうこういう霊様がか親がなくなるとお粗末になってしまうのじゃないでしょうかねぇ。親なればこそと思うんですけれども。
それが昨日、前の晩その事をお願いさせて頂いておりましたら、明日のこうして式年祭が仕えられるという事を神様にお届けさせて頂きましたら、もう最近では久しぶりにああゆう大きなおいさみを頂いたんです。
ははあ、普通でいうなら、とにかく目に見えないところを大事にするのが信心というのだと、とりわけ先祖とかね、霊様とかね、霊様とか根の方になったとこは見えないのです。しかしそれがもう親とか兄弟、ならまあ生まれて間もない亡くなられた霊様とかゆうのなら、まあ他の霊様の霊祭をする時に、それに合わせてからでもするというのが普通です。
けれども今度の式年祭はその霊様の為に親達が一生懸命の思いでお祭りを仕えてもらいたいと思うておる願いを、私は神様にさせて頂いたらね、もうびっくりするようなおいさみを頂いたから、ははあ、本当に信心とは目に見えないところを大事にする事、しかも、おろそかになりやい所、子どもが親の式年祭なんかする時には、もうそれは親兄弟皆集まって、一生懸命やりますけれども、そういうこの世に本当にわずかしかいなかった、霊様の事をです、いうなら、おろそかになりがちなところを大事にする。目に見えないところを大事にする。そういうようなところがね、神様の気感に適うのだなと思いました。
それから昨日の朝は、その事を又お願いさせて頂きよりましたら、「期せずして安東の家の霊の祭」という事を頂きました。
それから昨日皆さん、親戚全部見えられましたから、その霊様に対する思いがね、例えば娘婿なんかも会社を休んでお参りをしとるといったようなわけです。
お供えなんかでも、もう本当にまあ宅祭りでもする時のようににぎやかなお祭り。しかも威儀を正したお祭りでした。
そしたら昨日頂きますことが、昨日久富さんところから、今度東京歌舞伎の森口実【】達親子が親子兄弟だけで一座を組んでやって来るわけですね。その招待券を頂いとりましたんです。そしたらその招待券を頂くのです。
しかももう集まっている人達が皆んな親子兄弟ですけれども、【 】のある者ばあっかりで一座を組んで来とるようなもんでした。ははあ、昨日のお祭りは一人でもお付き合いで来たという者がなかった。信心のあるものばあっかりで、親たちの思いに添わせて頂こうというお祭りだったわけですね。
まあ余談になりましたけれども、お互いがおろそかになろうとするところを、おろそかにしないのが信心、目に見えないところを大事にしていくのが信心。
それを本気で、それがなされる時にです、神様の心に感動が響いていく。あの神様の感動が響いていくという事が、私はあのおいさみだと思うのです。
どっからどうしてあんな音が出るかわからない。実際は私共はわからないけれどもそういうふうに感じます。本当に目にみえないところばかりを大事にというのではなくて・・・まあ、そんなわけでございましたもんですから、昨日はそれこそ御祝儀のごたるおごちそうでした。
それでもう、ついつい御直会がきこしめしすぎたものですから眠ってしもうてからもう、夕方から眠ってから目が覚めた時には九時半です。もう夜の御祈念を終わってしまっておるというわけです。
それからまあ起きて、あっちこっち街灯やら電気がついとりましたから、電気を消して回ったりしてから、まあ修行生の方達があそこの信者控え室で何か話合いをしておりましたようですから、あそこだけはそっとして、電気を消して、それからお風呂に入らせて頂きました。
どうもそんなふうですねぇ。例えばまあ酔っぱらって寝込んでしまったというので何か理由もなしにその夜の御祈念を御無礼したのは何か心にひっかかるわけです。
それでここえ出て御神前で御祈念させてもらうけれども、何とはなしにこう、すっきりしない。それでもまあ、お風呂にども入らせて頂こうと思うてお風呂に入らせて頂いて、それから、私は大体お風呂に入るとお風呂の掃除を大体するのです。
それからまあ、ひとつひとつ、石鹸ひとつの上にでも、まあ心をこめてねさせて頂いて、どうした散らかしようじゃろうかというような事を、さらさら感じずに、それを信心だ、風呂に入った時の修行だと思うて、させて頂いておるうちに心が有難うなってくるのです。
ですから今日信心は容易とおっしゃる事はかならず合楽でなからなきゃならんとかね、又は御神前で拝まにゃならんという事だけではないという事。
心をこめて例えば特に自分の心が神様へ向かってもピタッとこん時には、むしろその風呂に入らせて頂くこと、その事自体をです、本気で信心でなされる事なんです。 そこからね、成程、信心ときはいうのは成程神様は、畑で肥をかけておろうが、道を歩いておろすうが、神の中をわけて通りおるようなものじゃとおっしゃるように、どこの端からです、心を神様へ向けさせて頂く。只拝んですみません、すみませんという事よりも、むしろそんなら、風呂に入るという事その事をです、真心にならせて頂くという事の方が神様がお喜びであるという事がわかります。
だから信心は容易いもんでしょうが。今日はおかげなこつで御無礼が出来た。どうも神様を拝んでもピタッと有難くなれないという時にはもう、その時点でです、そこにある自分のさせて頂かなければならない御用に、実意をこめる事です。信心とはそういう事なんです。成程、信心とは容易事だと思います。
まあ本当に恥ずかしい話ですけれども、赤裸々に話させて頂きます。そしてやすませて頂いて、もう昨日は田主丸の共励会でしたから、もう足をもんでもらいたいですからねぇ、もう大男さんが帰ってくる時分お思うて待っとたら、もう遅う帰って来ました。それからもうしばらく、テレビを見ながら、足をもんでもらってそんなわけでその夕方おいさみを頂いとったから御飯を頂いてなかったんですよ。
それから家内がまで起きてましたから、今夜俺はまだ夕食頂いとらじゃったけんでというて、それからあただ準備させて頂いてからお食事をさせて頂くもんですから、今朝から丁度、喉の乾く時期になってくるわけなんです。
今朝目を覚ましたら、それから私は、今、幹三郎と直子が一緒に控えに出て来てくれます。それけん直子に冷たいスノ-ラックですか、あれを二本ばかり持ってきてくれと、それから冷蔵庫からそれだけもって来てくれた。
まあそれだけではいけんのです。私は、後、口にかならずお水で口をゆすがにゃでけんのです。ところがなんべんも立たせるのが気の毒なものですから、その甘いものを飲んだまま、御神前の座に出たのです。
さあ、どっこい、口の中に甘いものがのこっておるというだけで神様とピタ-ッとこんとです。これはもう不思議な事です。神様ちゃそんなにデリケ-トです。
もう私は昔から、自転車に乗る前にかならず手と口をゆすぐというのは、昔しからの習慣でした。もうどこで神様と対決して拝まんならんかわからんですからね、もう出かける時にはかならず口をゆすぎ手を洗って、出たもんです。
そういう習慣がついてますからね、例えばスノ-ラックなんか甘いものをのんだ後に「直子さん水を持ってきてくれ」と言やよかったけれども、なんべんでん立たせるのが気の毒かったもんですから、そんなら自分が行って、口ゆすいでくりゃいいのですけれどもそのままで。
はじめてです、私は御神前に朝の御祈念の、こういう私が大事に大事にというのにですね、牛乳をのんで口もゆすがずに、御神前に出たなんて事は本当にはじめてです その心にひっかかるわけではなかったけれどもです、御神前に出てから、今までの毎朝のようちピタッといかんのです。そしていわゆる口もゆすがなかったという事が 皆さんどうでしょうが、口もゆすがん手もゆずかんで平気で拝めるという事は、神様とまだピッタリといっとらん証拠です。
ですからそういう事にです、神経を使わせて頂くという事なんです。信心とは。
そんなら今朝私は失敗というところから申しておりますけれどもです、そういう私は神様へ向かう為の心準備といったものが、やはり日頃心がけさせて頂いとかんと信心が容易ものになってこないんです。
信心というものを、拝んだからには聞いて下さらにゃいかん。拝んだからには神様と交流する。それが信心なんです。
だからその為に自分の心を改めるという事になるのでございます。だから口どんゆすぐこつじゃけん信心ちゃむずかしい事じゃないでしょうが。手ども洗うということですから、信心ちゃ難しい事じゃないでしょうが。
成程、お詫びをさしてもらわんならん。夕べからお夜食をしたりして朝の、いわゆる一番素晴らしいコンディションでなからなければならない時に、喉が乾くといったような事ですから、本当に心がかけなければいけないなという事なんです。
だから神様に向かうという時には、そういう素晴らしい何とはなしに神様の前にひかれるような時には一生懸命御祈念したらいいです。何とはなしに本当に手でも洗うて、口でもゆすいで御祈念でもさせて頂きたい時には、日に何回だって私は御祈念は有難いと思う。
そういう信心が身についていくと、信心が楽しい有難い容易いものになってくるです。もう二十年も前に、あちらこちらに私が信心話にお回りをしておる時分に頂いた御心眼に、こんな、なが-い御心眼でしたが、もう向こうはず-っと森なんです。その前が広い広い湖なんです。そこにこう、堤防があるところから、裸馬をひいた、もう赤銅色に輝くような健康そのもののお百姓さんが馬をひいて、その湖に馬を洗いに見える情景なです。
そしてその馬を湖の中に入れて、そして一生懸命馬を、御苦労さん、御苦労さんとまあゆうような感じで馬を洗っているんです。
馬を洗い終わってしまって、自分もざぶんと水の中につからせて頂いて、一日のいうならば、汗や垢を落とさせて頂いて、それはみすぼらしい、掘っ建て小屋にちょっと毛のあるようなお家に帰らせて頂いた。それからお食事をさせてもらう。
そのお食事とても、もう麦飯におつけもんといったようなけれども、もうそれがおいしゅうてたまらんというのです。
はあ、本当に有難い、おいしい。それから御祈念をして、もう昼の疲れてぐっすり暑いもなけれは何も感でない程しに寝こむところまでの御心眼をず-っと頂いた梃とがございます。
私は信心が容易いと言う事は、本当は自分の仕事、自分の家業に一生懸命に精を出すという事が根底にあって、神様でなければ本当の信心は頂かれんと思う。
いわゆる朝の清々しさ、昼の忙しさ、夜の有難さなんです。朝こうして清々しゅういわば、信心の稽古に通うてくる。そして昼はもう一生懸命、それがお百姓さんであるなら、田に出て畑に出て一生懸命働かしてもらう。それこそ農具一つ、鍬にでもお礼を言うような心。今日はつきかったろう、暑かったからとそう言いながら神様へお礼を申し上げる。
もう食べ物がまずいの、おいしくないのなんて事は、もう何を頂いてもおいしゅうておいしゅうて、有難とうてたまらんというのです。
そういう有難さでやすませて頂けば、そこにはね、それこそ蚤がおろうが、蚊がおろうがである。もうぐっすり明日の朝まで熟睡のおかげが頂けれる。
はあ-、暑くて眠られんという時には、昼の働きが出来とらん時だと思わにゃいかん。そういう生き方こそ教祖金光大神の生き方でおありになったと思うのです。
働くという事がまず原点。信心はまあ働くという事、だから御用という事になりましょう。だから、これはそんなら教会ででも何が御用頂いとるなら、その今日も一日本当に忙しい一日でありました。お使いまわし頂いて有難とうございますという事なんです。
いわゆる一生懸命の御用が出来るという事。一生懸命に働かせて頂くという事。
朝の清々しさから、その昼の忙しさに入っていくところのおかげ、そして夜の御祈念に、本当に今日も十分にお使いまわしを頂いて、もう今日はへとへとになるまでお使いまわしを頂きましたとお礼が言えれる心、それが信心なんです。
私は容易い信心という事は一生懸命自分の家業に精を出させて頂くという事が根底にならなければならない。それから信心はいよいよ有難いものになってくる。信心はそのように容易いものなのであります。
私が昨日から今朝にかけての私の失敗、いつも失敗するです。けれども私は、失敗したその後にです、又神様との交流が又スム-ズになる事の為の精進を致します。それを昨日、今朝からの事で聞いて頂きました。
そういう例えば信心を正して行くというよな生き方も信心はそういう意味で私は、決してそんために難しい事せんならんという事ではない。
例えばお風呂に入らして頂くという事だけでも、そのお風呂に入る事自体がいうならば、修行である。
そこでいうならば、ひとつひとつの事柄の中に思いをこめて、風呂にはいちせて頂くうちに段々、神様の方へ近づいてゆけれる、心が交うようになってくる。いわゆる有難とうなってくる。
本当の事は私共が先程一生懸命自分の御用に精を出すという事。だから不精者ではあんまり信心の有難さというものは頂かれないようですねぇ。
どっちかというと私は、大体大坪家というのは不精者筋です。けれども段々信心がわからせて頂くうちに、その事に打ち込ませて頂くとたろの信心が段々楽しゅう有難とうなってきた。いや実意丁寧の働きをしなければ馬鹿らしゅうなってきた。
そこからそれでもやはり時々今申しますようにル-ズな事になって、神様に相すまん事になりますけれども、その後を大事にする。
信心というものは、だから家業の業を本当に業として、朝の清々しさ、昼の忙しさ夜の有難さというものが、いわば信心の根底になるものであってそれがらです信心は そういう信心が、私は十年続いたらもう必ず吾ながら吾心が拝めれるとか祭れる程しの、心の状態というものが出来てくる。
今日は特に信心は容易いもの。その日その日のおかげを受けていけば立ち行こうがその日その日が立ち行くということ。
御無礼が出来たから何日も御無礼してしまうといったような事ではなくてです、その日その日が立ち行く事の為にです、もうあと今日十二時までの時間であるならば、もう九時半からいうならば、二時間半しかない、その二時間半を大事にするという事 信心というのはそういうふうな意味で容易いものぞという事。だからやはり工夫がいるです。例えばそんなら神様へこう対決する、向かう時にやはり口もゆすいどかにゃならん、手も清めておきたい、そういう心がけが大事。
だからそういう心がけが身に津停しまえば、容易い事になるのです、信心とは。
だから折角信心させて頂くのですから、その位な何かこれは各々でです、工夫させて頂いて、神様と交流する。神様は交うてござるのですがこちらの心がそれを遮断しておると言ったような場合がございますけれども、そこのところを、例えば、風呂に入るという事だけにでも真心にならせて頂く事から又交流しだす。
はじめて成程、神様は、畑で肥をかけておろうが道う歩いておろうが、神の中をわけて通りおるようなものじゃというような信心もわかってくる。
わかっておりながら、そんならお粗末になったり御無礼になったり、怠慢になったり、まあしだごだする時もありますけれども、その後を、あらこらしもたと、こら寝すぎたという時には、只今私が申しましたような工夫をするというような事でも、大変難しい事じゃない。そのくらいな工夫はなされなければならない。
今日は信心は容易いものじゃが難しいものにするという傾向が皆にありますから、その難しもうする、只御神前で拝む事だけが信心ではなくて、金光様の御信心はどこまでも容易う信心をさして頂く。畑の中からでもお風呂の中からでもよい。
例えは私これは体験がないのですけれども、一日畑で働かして頂いて、使わけて頂いた鎌なり鍬なりがです、いやぁ本当に今日は一日中御苦労さんと、使った道具にお礼言うよな心もちでです、それも御苦労さんと投げやったっちゃ御苦労さんにならん それこそそれを又きれいに研かせて頂く、泥を落とさしてもらう、洗わせてもらうそういう、そうしておるうちにです、自分の心の中に神様が生き生きとしてござるのです。間違いないです。
そういう行き届いた信心もです、身についてまいりますと、それは容易いものに、いや例えば実意をこめてさせて頂く事の中にです有難いものが頂ける事が楽しいのですから信心とは。
さあお父さんもう風呂が涌きました。さあご飯頂いて下さい。ああそうかと言うてそのお風呂が又有難とうしてこたえん。出来とるご飯にとっても不平不足が言えん。 そういう日々でありたい、そういう日々がいうならば、十年と続いたら、確かに吾心が祭れる程しのおかげが頂けると思うですね。
どうぞ。